3asy to man!plate

もの書きの練習帳

普通のことしかできないから

言いたいことはたくさんあるけれど、いざ言おうとすると

キーボードを打とうとすると、画面を目の前にすると

その時その場所になると、途端に何も出てこない

こんなんじゃない、頭のなかではぽっと言葉が浮かんでは

消えていく、だからこんなもんじゃないんだ、

スピード感が全然ちがうよね。

洗濯物を干しているときに、部屋の窓を開けると、ぬるい部屋の中に

冷えた夜風が入ってきて、そんな時にぽっと

こうして毎日を過ごして、食べて、寝て、洗濯をして、仕事にでかけて、

食べて、テレビを見て、話をして、きっとそうやってまあまあ満ち足りた

生活を送って、幸せだなあと、

そして、その幸せは、私に何を残すのかと、

一体私は、何のために生きているのだと、

平和な幸せな毎日を暮らすために、嫌いなことを避けて、

うまくやりくりをして、時には頭をつかって、ずるいことをしたりして、

そんなことをして続けていきたい私の生きる道ってなんなんだって

すると、途端に、ただの洗濯物を干している瞬間だったのに

あらゆることが私の中を駆け巡っていって

そしてそれもまた光のスピードで、瞬く間に消えていく

次の瞬間には、私はタオルを干すのに取り掛かっている

誰にでも、きっと、絶対こういうことは起こっているんだと思うけれど

どこか、自分だけ特別だなんて思いたい節があって

そういう特別感ってのを至極大事にしながら、

やっぱり普通のありふれたことをやっているんだと思う。

黒っぽい赤色を見て

一瞬目を疑った

自覚症状がなかったが

私の内部で何かが起こっている

いやな予感がした

爆弾を抱えている

私の内部で

ゆっくりとしずかに

確実に

細胞を蝕んでいく

赤い黒い塊は

間違いなく私から生み出されて

産み落とされた

自分から切り離された瞬間

それは私ではなくなり

それは悪となった

果たして

何が正しいかなんてわからずに

ただひたすら正確に勤勉に

栄養を細部にまで送り届ける

働きを

今日も続けている

ほんと、それとも、うそ

あなたと出会って、一緒に過ごした時間の長さなんて

そんなに大した事ではないよね。

「長さよりも深さだ」とか誰かが言ったのを

ずっと大事に胸にしまいながら

あなたとの日々を大事にしようとしてきたけれど

どうやらそれは「     」だったみたい。

昨夜のあなたはどうもおかしくて

今朝もそのおかしさを引きずっていて

なんだかあなたじゃないみたい。

 

はじめは余所行きだった私たちは、次第に距離を縮めて

馴れ合うようになっていったね。

手をつなぐことを恥ずかしがり、

次第にうれしく、次第に当たり前に、

そしていつのまにか手をつながなくなったね。

それは直接触れていなくても、きっと十分に満たされているからだよね。

 

あなたのとなりはいつも私で

私のとなりはいつもあなたになった。

 

私は十分に幸せを感じていたけれど、

あなたの余所行きの感じに、私はどきりとして

果たして知らないあなたの口から発せられる一言目は

どちらなのだろうと

怖いもの見たさな目を細めて待っている。

右に行くように誘われている

今、私は右に行くように誘われている

そんな空気を感じつつ、私は右に向かっている

分かれ道

立ち止まった時にいつも私は

そういう目に見えないわからない空気的な 何か を感じ取って

巧みにまるですごいでしょうなんて自慢げに

何の迷いもなく右に進む

私は

一体どこからその自信が沸き起こってくるのか

もはや不明である

右に一体何があるのか

自分が 自分の意志で 選んだ道ではない 右に

一体何が待っているのだろうか

そうであるから怠惰な結果になってしまうのではないだろうか

私は 何を大切にして 日々を過ごしているのだろう

空気を読むこと

そこには 私の人生を豊かにする どんな要素もないということに

一体いつになれば気づくのだろう

nurui

「愛している」の言葉を

ずっと待ち続けている

あなたの口から発せられる時を

ずっと待ち続けている

何年も何十年も何百年も

その執念深さだけは誰にも負けない

絡みついて離れない私の気持ち

 

だからってね

「愛してる」

とか言われてもねえ。

 

「い」が足りないじゃないの

どこに置いてきたの、ねえ

少しの足りないも許せない

早く見つけてつけたしてよ、「い」

催促するのだけは得意なの私

 

「愛してよ」

とか求めてんじゃないよ

与えないくせに求めるなんてわがまま

私に通用すると思ってんの

なめられたものだね本当に

 

だったら徹底的に

逃げられないほどに

母の日に向けて

サザエさんも、例外なく「母の日」のエピソードを放送していた今日。

世の中はやたらに母の日ムード。お母さんって、やっぱり偉大だよなあ。

でも、常日頃、家族のことを、気にかけているかといわれると、そうでもない。

でも、こういう機会だから、ちょっと電話してみようかな、ちょっと贈り物をしてみようかな、なんて、日ごろの感謝を伝えるのもいいのだろうな。

とかいって、まだ何もしていない私。

月末に、母がこっちに遊びにくる予定だから、そのときに親孝行でも、とか考えながら、そういばサザエさんなんて、久しぶりに見たけれど、今時の日本に、木造一軒家に、3世帯が住む家なんて、そうそうないだろうな。

祖父母、父母、娘息子、孫、それぞれの立場をわきまえて、ある意味、それぞれの立場での役割をこなしている。家族といえど、家族内において、一定の秩序が保たれている。

それは、いい方は古臭いかもしれないけれど、波平のいわゆる一家の大黒柱が家族の核となって、その周りで家族が形づくられているからなのかもしれない。

今の、現代の家族は一体どうなっているか。核家族化がすすみ、ますます孤立化が進んで、2040年には2人に1人が一人世帯となってしまうような現代において、家族内ので、秩序など、成り立っているのだろうか。

サザエさんのCM中に、amazonの、これまた母の日にまつわるCM映像が流れた。

帰宅した母親に、子どもたちがサプライズで母の日のお祝いをする内容になっているが、登場人物が父母子ども達だけであるから、これもおそらく、核家族世帯の家族構成であろう。

果たして、今の家族に、それぞれがそれぞれの立場としての役割を担うルールは存在しているのか。むしろ、個が尊重されるこの時代で、もはや個の尊厳が何よりも優先されるこの時代において、それはもはや家族内においても、浸食されているのではないか。

むき出しの、個と個のぶつかり合い。

現代におけるいい家族は、よそ向きの、目で見て耳で聞いて心地よい家族。

インスタではキラキラ輝いた家族に見えても、ひとたびカメラがなくなると、意識がのこっているうちはインスタの延長で綺麗なふるまいができていても、そんなの永遠に続くわけもなく、次第に野生むき出しの、個性があらわになってくる。

自我と自我のぶつかりあい。

日進月歩で文明が進んで、超ハイテク化した現代にいるにもかかわらず、最も小さなコミュニティである家庭内は原始時代に戻りつつあるようです。

 

なぜあんなことを言ったのか。

なんか月ぶりに会う、

会いたくて、なかなかあえなくて

それがやっと会える

どんな服着ようとか、おしゃれしようとか

アタマ悩ませて、すごく楽しみで

それで、初日の夜に会えないってなって

すこし落ち込んで、でも

よくよく考えてみれば、

会いたいって会いに行っているのは私の方で

滞在時間がなるべく長くいられるように

休みをとったりして

でも、彼は長いなんて驚いてて、

もちろんいてもいいとはいってくれたけど

どれほど会いたいと思ってくれているのか

わからなくて

もしかしたら、そこまで会いたいわけでも

ないんじゃないかと

仕事で会えなくなるのはわかるし

ちらほら誘われた飲み会もあるようで

もしかしたら、そっちに行きたいんじゃないかって

それなら、もはや私、いかないほうが

いいんじゃないかなんて思えてきて

なんだかすごく悲しくなって

どこいきたいとか

なにしたいとか話したいのに

なんだかさみしくて

そんな話もでずに

お互いの別の予定をたてていたりするの